映画『闇の列車、光の旅』中南米の過酷すぎる現実とマヤ文明の数字

映画情報


闇の列車、光の旅
(原題:Sin nombre

闇の列車、光の旅 ポスター
製作:2009年(メキシコ/アメリカ) ジャンル:ドラマ/クライム/ロマンス
上映時間:96分
監督/脚本:キャリー・ジョージ・フクナガ 撮影:アドリアーノ・ゴールドマン
出演者:ドガル・フローレス、パウリナ・ガイタン、クリスティアン・フェレール、and more…


【闇の列車、光の旅】解説/あらすじ


現代社会が抱える不法移民問題などの過酷な現実を、中南米の国ホンジュラスからアメリカへと向かう列車で出会ったホンジュラス移民の少女と、メキシコのギャングの一人である少年の出会いを軸に描く社会派ロードムービー。監督を務めるのは本作が長編デビュー作となる日系アメリカ人のキャリー・ジョージ・フクナガ。


中南米の国ホンジュラスに住む少女サイラ(パウリナ・ガイタン)の父は、サイラが幼い頃に不法移民としてアメリカに渡ったのだが、強制送還されて戻ってきて、今度はサイラも一緒に連れて、叔父と共に3人で半ば強引に列車に乗って自由の国であるアメリカを目指すことに。しかし、そこで待ち受けていたのが、リマルゴ(テノッチ・ウエルタ・メヒア)率いるメキシコのギャング団。ギャング団の一員であるカスペル(エドガル・フローレス)がギャングの一員としての自分の在り方に疑問を感じていた最中、サイラと遭遇したリマルゴの暴挙を見て、カスペルはついに耐えることができなくなりリマルゴに死の制裁を食らわすのだったが…。


【闇の列車、光の旅】映画感想/レビュー


『天国の口、終わりの楽園。』などで知られるガエル・ガルシア・ベルナルとディエゴ・ルナが製作総指揮をつとめ、その二人が惚れ込む程の才能を持った日系アメリカ人、キャリー・ジョージ・フクナガの長編映画監督デビュー作にあたるメキシコとアメリカの合作映画『闇の列車、光の旅』。
ホンジュラス、メキシコの中南米の厳しい実情を描く社会派ヒューマンドラマであると共に、そんな厳しい現実の中に一筋の光を見出す青春ロードムービーとなっている。
闇の列車、光の旅 サイラ


フェルナンド・メイレレス監督が『シティ・オブ・ゴッド』でブラジルを、ダニー・ボイル監督が『スラムドッグ$ミリオネア』でインドの厳しい実情を描いているように、この『闇の列車、光の旅』では、ホンジュラスやメキシコなどの過酷な現実が克明に描かれています。


【中南米の厳しい現実】


“ここには何もない、未来も。”という言葉があまりにも現実的すぎるほどに、世界最貧困国の一つであるホンジュラスは貧しい国であるし、メキシコの南東に位置するチアバス州も、人工の40%が貧しい農民であり、“カスは18個にブった切って犬に食わしてやる”という危ない台詞が出たり、子供が改造銃をぶっ放したり、一人に寄って集って13秒間集団リンチをかましたりと、兎に角治安の悪いところでもある。


【マラ・サルヴァトゥルチャ(ギャング団)とマヤ文明】


そもそもこの治安の悪さは、貧困故にマラ・サルヴァトゥルチャ(MS)という中米の大きなギャング集団が幅を利かせているからなのですが、何故にこのマラ・サルヴァトゥルチャというギャング軍団は挙ってどっかの文明人のようなタトゥーを施しているのか?というと、この風貌はどっかで観たことあるな。と思いました。メル・ギブソン監督の『アポカリプス』のマヤ文明の人たちですね。
チアバス州は、マヤ文明やオルメカ文明と大きな関係があり、マヤ文明と考えると、リンチが13秒間なワケも、18個にぶった切って犬に食わせるわけも、あのタトゥーも激しく理解できるような気がします。


(マヤ文明では、一ヶ月を20日として、360日(18ヶ月)にワイエブ月と呼ばれる5日間を足して1年と数えるハアブと呼ばれる暦と、ちょっと理解も説明も難しくて、13の係数うんたらがどーのという頭おかしくなりそうな1周期を260日とするツォルキンと呼ばれる暦の組み合わせ(ワイエブは省かれるらしい)が13年ごとに一巡するらしい。よくわからないけれど、兎に角マヤ文明においての18とか13とかいう数字は重要な数字とされている。)


そして、マラ・サルヴァトゥルチャが度々掲げるロニー・ジェームス・ディオヨロシクなメロイック・サインのようなものは、アレはそれこそマラ・サルヴァトゥルチャの頭文字MSからメロイック・サイン(若しくはサタニストとしての象徴としてのサタニック・サイン)を連想させたものなのかもしれない。


【闇の先に光、光の先には何があるのか】


ここで描かれていることは、何の拡張でもなく、単に現実を切り取っているだけなんだけれど、あまりにも厳しくて過酷な現実です。
こんな危ないギャングの中でしか生きられないという現実があるカスペル(エドガル・フローレス)だけれど、刺青だらけの血に塗れ涙もないようなリーダーのリマルゴ(テノッチ・ウエルタ・メヒア)に、事故とはいえ恋人のマルタ(ディアナ・ガルシア)を殺害され、心は涙で濡れたままのその晩に、過酷なホンジュラスの現実からアメリカに密入国しようとするサイラ(パウリナ・ガイタン)の乗った列車に、カスペルとスマイリー(クリスティアン・フェレール)とリマルゴの3人で大列車強盗をするハメになり、カスペルの心の中を象徴するように美しい大自然は雨を降らし、そんな雨の中、リマルゴはサイラをも“サルマ・ハエック似の美人だ”と言って陵辱しようとする。(Dir en greyの曲に‘陵辱の雨’というタイトルの曲がありますが。)
そんなリマルゴに我慢ならなくなったカスペルは、結局組織のその支部のリーダーであったリマルゴを手に掛けるハメとなり、家族同然だった組織から追われることとなってしまい、自らの命はもぉ意味のないものとさえ思ってしまうようになる。
組織を追われること=アイデンティティの喪失であり、それの意味するところは『死』でしかないのです。


しかし、運命とは本当に残酷なもので、現実はカスペルを簡単に死に追いやる程生易しいものではなく、カスペルに助けられたサイラは、偶然起こった出来事と言えども必然的に、カスペルに恋心を抱いてしまうようになる。
サイラの自分のその眼で実際に見たように、カスペル人を殺めた男であり、タトゥーを見ればわかるように、追われている身とは言えギャングだし、サイラ自身は、父と叔父とでアメリカに密入国しようと危険なヤマを踏んでいる身であって、そんな中で恋心なんぞ芽生えさせている場合でもないはずなんだけれど、運命とは本当に残酷なものだし、恋は盲目です。
闇の列車、光の旅 画像


しかし、盲目で何も見えなくなってしまうくらいの方がよかったのかもしれない。
この過酷な現実を見るくらいなら、恋にでも落ちて盲目的になってしまった方が、いくらも幸せだったのかもしれない。
それほどに現実というものは過酷なものなのである。
そんな過酷な現実とは裏腹に、中南米の大自然が育む絶景はあまりにも美しく、恋に落ちた二人の表情も、いくらか幸せそうに見えた。
それでもやはり運命とは残酷なもの。
闇の先に光があるのなら、光の先には何が見えるのでしょうか?


深く考えさせられるのは勿論のことなんだけれど、待ち受けている現実もやはり過酷で重たいが故に心を動かされる。
私達は本当に身をもった実感として‘命があることに感謝するべき’なのかもしれない。
生きることもまた『死』と同等に過酷なことなのである。
重たいですが、『現実』というものを知る上でもオススメの一本です。

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